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マエストロ岩城逝く

昨日、夜のTVニュースで訃報を知り愕然としました。
この地に越してきて、嬉しいことの1つに岩城宏之さん率いるOEK(オーケストラ・アンサンブル金沢)の存在がありました。おおげさなようですが、それが、そんな文化を育む地に暮らすことが、私の誇りでもあったのです。
近くだからいつでも聴きにいける、と油断していました。
もちろん、病気のことも知ってはいたのですが・・・

結局、生で岩城宏之指揮OEKの演奏を聴いたのは、石川県立音楽堂ができるまだ前、観光会館での定期1回きり。
たしか、その回は、委嘱作品が間に合わず、それについて直接お話しをされたような記憶が。いまとなっては演奏曲目すら思い出せないのですが、とにかく、門外漢の私でも「とてもいい音をだすオーケストラ!」ってことは、よーくわかりました。(それからほどなく県議会でOEK運営赤字が問題になり、ばからしい議論が起こったのだが・・・)

そして、岩城さんといえば、音楽だけではなく、「話の特集」時代から、文筆家としても楽しませてくれました。
単行本で最初に読んだのはおそら岩波新書の「フィルハーモニーの風景
楽譜を写真のように1ページ1ページ頭の中に焼き付けていること、その1ページが欠落して冷や汗をかいた、という話しが特に印象に残っています。

近場にいるという以外に、油断してしまったもう一つの原因?といえば、その文筆の分野での活躍。

現在、週刊金曜日で「いろはうた」というエッセイを連載中。例のユーモアあふれる語り口で毎回楽しみにしていました。
軟派な金曜日読者としては、真っ先に開くページ。
つい、2週前(No.608 6/2)の誌面でも、その連載では和田誠氏とベートーベンの交響曲の話しなどされていたのに。。。

岩城さんとOEKについては、自在コラム(金沢大学地域連携コーディネータ・客員教授 宇野文夫さんのブログ)に詳しく紹介されています。

今年は、親友の死からはじまって、米原万里さん、岩城宏之さんとこうも愛すべき人たちの訃報が続くとは・・・

50回目にして生前最後となった、岩城さんの「いろはうた」はこの6/2日号に掲載

コメント

  1. 指揮者の引き際 ― 岩城宏之を偲ぶ

     この前の日曜日、外出から帰ってきてテレビをつけると「N響アワー」の時間だった。すでに番組は終わりに近かったが、黛敏郎が作曲した『BUGAKU(舞楽)』第2部の演奏がちょうど始まるところだったので、ぼくは着替えるのもそこそこにテレビの前に陣取った。この曲の演奏風景に出くわすのは、めったにないことだったからである。
     このところクラシック音楽に耳を傾ける時間はずいぶん少なくなってしまっているが、そんな中でも最近はなぜか『BUGAKU』のCDをよく聴いていた。おそらく白洲正子についての記事を執筆するにあたって、日本の伝統美のほうへと心が引き寄せられていたからかもしれない。とはいってもいきなり邦楽を聴く気にはなれず、西洋のオーケストラが雅楽的な響きを奏でる『BUGAKU』へと食指が動いたのだったろう。
     この曲のCDは2枚持っているが、ひとつは岩城宏之の指揮するNHK交響楽団の演奏だった。テレビから流れてきたのは、まさに同じ指揮者、同じオーケストラによる『BUGAKU』であった。その演奏は1989年に収録されたもので、岩城は50代後半にさしかかっており、熱い底力がみなぎっているのが感じられた。その翌々日、まさか彼の訃報を聞くことになろうとは、そのときは思いもしなかった。
       *
     福井に暮らしていた少年のころ、ぼくは飢えた獣のようにクラシック音楽をむさぼり聴いた。将来は指揮者になりたいなどと、かなわぬ夢を胸に抱いていたものだ。しかしとにかく何か楽器ができなければと、12歳のときにヴァイオリンを習いはじめ(それは明らかに遅すぎたようだが)、子供だけで編成されるジュニア・オーケストラに入って雑音をキーキー鳴らしたりしていた。
     やがてお隣の石川県に「オーケストラ・アンサンブル金沢(以下OEKと略す)」ができ、ジュニア・オーケストラの指導者のひとりがヴァイオリン奏者として入団したことを知った(その人はまだうら若い女性だった)。ぼくは彼女に直接指導を受けたことはなかったが、彼女はぼくたちの誇りになった。何しろ、世界中から団員を募ったオーケストラのオーディションに勝ち残ったのだから。そしてそこの音楽監督というのが、あの岩城宏之だったのだから。ぼくは有名な指揮者と、小さな接点ができたみたいでうれしかった。
     しかしOEKの生演奏に触れる機会はなかなか訪れなかった。当時、

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