こんにちは。
@pooh_1960です。
ラ・フォル・ジュルネ金沢もたけなわな今日この頃。
一人の偉大な音楽家の生涯を描いた素敵な一冊の本を読みました。
『木琴デイズ 平岡養一「天衣無縫の音楽人生」』通崎睦美
戦前から戦中、戦後、昭和の時代に、アメリカそして日本で名声を博した木琴奏者 平岡養一の生涯を、自身もマリンバをはじめとした打楽器奏者でもある通崎睦美さんが丹念に描いた作品。
その書き出しは、 喉頭がんで今は療養中のわれらがOEK(オーケストラ・アンサンブル金沢)の音楽監督 井上道義さんの一言、「再来年の二月十三日、あいてる?」ではじまる。
「再来年の二月十三日、あいてる?」
すべては、指揮者井上道義の、この一本の電話から始まった。
「二〇〇五年二月十三日、東フィルの定期で、紙恭介の『木琴協奏曲』をやるんだ。君にぴったりの曲だから。平岡養一の木琴で弾いてもらう。その楽器でしか弾けないらしい。楽器はオーケストラが手配してくれるから。べんきょうしておいてね」
それだけ告げると、電話が切れた。「木琴デイズ」 5p
そういえば、私が幼い頃、我が家には卓上の、ビニールのケースに入れて持ち運べるような木琴があったなぁ、などと記憶をたどりながら、初めて知る平岡養一という木琴奏者の人とその思いに引き込まれ一気に読んでしまった。
著者は平岡養一そして木器にまつわる作品、資料を丹念にあたり、この稀有な音楽家を、木琴という楽器を描き出している。
個人的に特に気になったエピソード・作品を二つ紹介。
戦中・戦後人気を博した平岡養一の木琴に影響を受けた人は多くいるが、OEKの初代指揮者・音楽監督だった故 岩城宏之さんもその一人。
岩城は、小学校五年生の時、骨膜炎と診断され、足にギプスをつけた状態で長期自宅療養を余儀なくされていた。ある日ラジオから流れてくる平岡の木琴の音色に夢中になった岩城は、自身も木琴をとせがむ。そして、父に小さな卓上木琴を買ってもらい、平岡の放送をお手本に布団の中でカタカタと練習をはじめるのである。家にあった兄のハーモニカ教則本に載っている『愛国行進曲』や『軍艦行進曲』では飽きたらず、平岡が弾くような美しい曲を弾きたいと、放送を耳で覚え、卓上木琴を駆使して再現を試みた。毎日「敵国」の音楽を練習する岩城の家には「非国民!」「売国奴!」と石が飛んできたそうだ。しかし、この平岡の木琴との出会いが、東京藝術大学音楽部で打楽器を専攻し、その在学中から式の修業をはじめた岩城宏之のまぎれもない音楽人生の出発点となった。
「木琴デイズ」 162p
次は、木琴に普及の様子を知る作品として紹介されている金井直の詩『木琴』
木琴
金井直妹よ 今夜は雨が降っていて お前の木琴がきけない
お前はいつも大事に木琴をかかえて 学校へ通っていたね
暗い家の中でもお前は 木琴といっしょにうたっていたね
そして よくこう言ったね
「早く街に赤や青や黄色の電燈がつくといいな」あんなにいやがっていた戦争が お前と木琴を焼いてしまった
妹よ お前が地上で木琴を鳴らさなくなり
星の中で鳴らし始めてからまもなく 街は明るくなったのだよ私のほかに誰も知らないけれど
妹よ 今夜は雨が降っていて お前の木琴がきけない「木琴デイズ」 227p
金井直さん、私が在籍した頃 文化学院の講師をされていました。
たしか創作コースの講師をされていたので、私は直接授業を受けたことはなかったのですが、何度か学校でお見かけしました。
とても気難しそうな方だなぁ、との印象、ちょっと怖れを抱いていました。
数編の詩を読んだだけで、先生の作品をしっかりと読んだことがなかったので今更ながら図書館へ走り借りてきました。
それにしても人生を狂わせてしまう『戦争』は絶対繰り返してはいけない。
あの時代のことが、いまの日本のありようと重なり、息苦しくなる。
そうした時代に生きた、まさに波乱万丈なその人生、努力して音楽家として成長し、確固たる地位を築いていく生きざま。
音楽好きな方はぜひ読んでみて下さい。
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